1853年
3月30日
オランダの牧師館で牧師の6人兄弟の長男として生れる。
1869年 中学を中退後、伯父が設立した会社でパリの美術商グーピル商会のハーグ支店に見習いとして就職する。
1872年 弟のテオと親しく交流し8月から文通を始める。
この文通は生涯ほとんど途絶える事無く続く。
1873年 失恋により深く傷つく。
伯父の計らいで数度転勤になるが仕事に身が入らず、3年後、解雇されるのを予期し自ら辞職する。
1876年 私立学校で補助教員となりフランス語、ドイツ語、数学を教える。
11月に初めて説教を行って感動し、伝道師を目指す。絵画にも興味を持ち、美術館に通う。
1878年 ブリュッセルにて福音伝導師を目指すが適性無しと判断される。
それでも聖職に従事する為、伝道活動・奉仕活動を行う。
一方で奉仕相手だった坑夫を描くようになる。
1880年 画家になることを決意、ブリュッセルの美術学校に通う。
1881年 尊敬する画家のマウフェを訪ねる。
マウフェに水彩画の道具一式を与えられ、彼のもとで一ヶ月制作する。
1882年 娼婦のシーンと同棲。5歳の娘の面倒もみる。
画商の叔父から、長年の唯一である風景画20点の注文が入る。
1883年 画業と家庭を持つことは相容れないと悟り、シーンと別れるが孤独に耐えられず両親の住む村に戻る。
約2年の滞在で約200点の油絵、多数の素画と水彩画を描いた。
1886年 パリのアトリエで学ぶ。テオを通じて印象派主義者とその作品を知り、影響を受けその色彩は生き生きとする。
1888年 点描技法によって絵を描く。最初の点描主義者・スーラと知り合う。
スーラのアトリエを訪ねた後、2年間に200枚以上の絵を制作したパリから、南仏・アルルへと移る。
この年の10月にアルルの『黄色い家』でゴーギャンと共同生活を始めるが2ヶ月で関係が悪くなる。
ゴーギャンが家を飛び出した後、耳きり事件を起こし病院に運ばれる。
1889年 アルルから27kmのサン・レミの精神病院に自ら入院する。
入院中も絵を描く事、看護人の監視の下、野外の制作も許されていた。
1890年 ブリュッセルで『赤い葡萄畑』が400フランで売れる。生涯で売れた唯一の作品。
3月にはアンデパンダン展に10点出品。6月、ガシェ博士のもとで治療を行う為オーヴェールに移る。
しかし、この年の7月夕方の外出時に胸に銃弾を撃つ。
7月29日 早朝テオに見守られて死去。
青空の下、麦畑を見下ろすオーヴェールの墓地に埋葬される。